2008年08月17日
■栄啓期図とデ・キリコの不在

ジョルジョ・デ・キリコの作品展を観たのは、
1970年代初めの鎌倉だったような気がする。
学生時代は、多くの美術展に足を向けたが、
なかでも「富岡鉄斎展」と「デ・キリコ展」は、
折にふれて、いまだに、ふと思い起こさせる何かがある。
「富岡鉄斎展」は、そのスケールに圧倒されたが、
鉄斎最晩年の作品、「栄啓期図」が忘れられない。
栄啓期が山路を飄々と下ってくる。
まるで萬有引力のままのように、
ニコニコと満ち足りた自然な姿に、
なんともこころ打たれるのだ。
「栄啓期さん。何故そんなに楽しそうにしているのですか。」
と孔子が訊ねると、栄啓期はニコニコと応えるのだ。
人として生れたこと。
男として生れたこと。
そして90歳まで生きたこと。
これをもって「三楽」という。
と栄啓期が応えた。
しかし栄啓期をして、
「酒」の楽しみを知っていたならば、
「三楽」とは言わず、「四楽」と言ったであろう。
たしか、そんなような中国故事からの画賛であったように記憶するが、
「栄啓期図」は、その後なかなか見ることが出来ない。
・・・なるほど。
それで、「三楽」という酒造メーカーがあったのであろう。
いっぽう、現代美術に多大な影響を与えた、
ジョルジョ・デ・キリコ。
この作品展も圧倒的であった。
時間が止まってしまったような昼下がりの不在感。
これはいったい何なのだろうか。
そんな思いが、宿題のように残ったままに、「時」は過ぎてゆく。
それで、イタリアの美術館を歩くたびに、
こころの片隅で、
ガイドブックで、デ・キリコの収蔵作品を探して、
歩いているのだけれど、
どういう訳か、デ・キリコ作品には廻り合わないのだ。
写真は、間違えて迷い込んだ、
ベルガモの現代美術館の中庭。
ここにも、デ・キリコはあるのだが・・・。
人影もなく、昼下がりの静寂のなかで、
光も止まっているようだ。
いつか観たデ・キリコの絵画を思い浮かべながら、
デジカメで、パチリと写した。
2008年08月13日
■ナキウサギとトマト

大雪山(ヌタクカムウシュペ)はアイヌ語で、
カムイミンタラ『神々の遊ぶ庭』と呼ぶ。
夏の晴れた日に、
帰省した娘とキャンプをしながら大雪山へ行った。
朝6時台は、先を急ぐ百名山団体ツアー客などでラッシュアワーの様子なので、
それを見送ると、7時台のロープウエイはがら空きなのだ。
この30分から1時間のちょっとした時差で、
山は本来の静けさを取り戻す。
黒岳まで登れば、あとは天候と体力次第。
ロープウエイの最終便の日暮れまで、
ちいさくて可憐な高山植物が咲き誇る、
『神々の遊ぶ庭』を逍遥することができる。
コンニチハ。コンニチハ。
お先にどうぞ。お先にどうぞ。と日長一日、
目的を放棄して、引き返せる範囲で逍遥すれば、
カムイミンタラは、刻一刻と、
また別な姿を垣間見せるのだ。
それは夏の日の、束の間だけにゆるされる、
至上の楽園でのひと時だ。

御鉢平をぐるりと囲んで時計回りに、
正面の間宮岳・中岳・北鎮岳・凌雲岳・桂月岳・黒岳・北海岳。
よいお天気だから、とりあえず、北鎮岳辺りへ行ってみるか。

そんな具合で、散歩をすれば、
ハイマツの影で、あれ、鹿かと思う大きさの、
キタキツネが大あくびして昼寝している。
ガレ場の岩陰で、「ピチュ・ピーチュ」と声がする。
あれ、ナキウサギさんでないの。
・・・こんにちはナキウサギさん。
・・・登山者さんお先にどうぞ。
・・・いや行きません。写真撮るのです。
・・・という具合なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところが、先日のピョウタンの滝でも見かけた、
「指名手配」のポスターを、カムイミンタラでも見かけた。
「このハチみたらご一報ください!」=セイヨウオオマルハナバチ。
花に寄り添うミツバチよりもひと回り大きい、
尻に白い特徴のあるこのハチは、
トマトの受粉のために欧州から輸入された「外来種」だ。
そこで、帰ってネットを調べると、
ミツバチは、ミツを吸う舌の長さが種類によって異なり、
吸う花の種類も違うと言われるが、
舌が短いセイヨウは開いた花びらから吸わず、
横から刺して吸うため(盗蜜)、体に花粉がつかない。
東大保全生態学研究室によると、
横に穴が開くと、在来のマルハナバチもその穴からミツを吸ってしまうという。
花は受粉できず、共生関係が壊れ、植生まで変える恐れがある。
(asahi.com「恐竜以来の大絶滅時代か・・・」2008・6/10より引用)
トマト収穫の省力化の為に導入された「外来種」が、
栽培用のトマトハウスから逃げ出して野生化し、
生態系の連鎖を脅かす。
生態系の多様性は失われ、
恵庭市ではすでに9割のハチがこの外来種となり、
大雪山黒岳9合目でも発見されているという。
そして廻り廻って、氷河期からの生き残りの、
ナキウサギの餌となる植生をも、脅かしているというのである。

「・・・農家のおじさんこのトマトのハチは」「ああ、セイヨウじゃないよ。昔トマト」
「今のとどう違うの」「酸味があって、皮が薄い」「・・・なるほどね」
『神々の遊ぶ庭』カムイミンタラで、
細々と太古から生き残るナキウサギの世界にも、
効率化という名の、
人為的な、人間のエゴによる、
グローバリゼーションの負の側面が、
ひたひたと打ち寄せる・・・。

2008年07月29日
■YOUKOさんの店で。

久しぶりで、
YOUKOさんのお店を訪ねました。
コーヒーを飲みながら、
窓の外に拡がる、
暮れてゆく田園風景を、
ぼんやりと眺めていますと、
壁際の席で、ひとり軽食を取っていた、
ご夫人も、いつの間にか居なくなっております。
・・・ああ、もうこんな時間か。
・・・そろそろ、お暇しなくてはね。
・・・ほかに、お客も居なくなったし、ゆっくりしていきなさいよ。
と、世間話がはじまりました。
・・・そういえばあの人、その後どうしているかしら。
・・・あれ、知らないんですか。

・・・・・・・。
・・・へえ、そうだったんだ。
ぼちぼち、帰らなくてはと思いながら、
ふたたび、時計に目をやると、
なあんだ、まだこんな時間か。
・・・そんなこと、ちっとも知らなかったな。
・・・でも、あの頃、みんな若かったからね。
・・・そういえば、あの時、あんな事もあったよね。

・・・いまでは、みんな、思い出だね。
・・・ここでは、いつもこんな話をしている。
・・・そういえばそうね。
・・・止まったままの時計のせいだろうか。

・・・・・・・・・。
・・・また、いつか、お邪魔します。
2008年07月21日
■ワンボックスジプシー

むかし高度成長のハシリの頃、
人々は、大きなリュックを背負い「カニ族」と云われ、北海道を旅した。
「いい日旅立ち」とか、ディスカバーJAPANとかで、
人々は、やはり北の大地、北海道を目指した。
モトクロスバイクのツーリングがはやり、
人々は、やはり夏の北海道のキャンプ場を目指した。
いまそれらの人々も、おおくは定年後を迎え、
山好きな人々は、駆け足で百名山を目指し、
またクルマで転々と北海道の夏を満喫したりしている。
夏が来ると、道の駅でも、山奥のキャンプ場でも、
全国から大都会ナンバーが集まっている。
それらのクルマには共通するパターンがある。
グラビアから飛び出したような、
如何にもブランド志向も誇らしげなキャンピングカー。
いっぽうで多いのは、所帯道具を詰め込み、
生活臭までも滲み出ているワンボックスカーだ。
どちらも、何処となく場違いな雰囲気を漂わせているのは、
重々しい装備の故であろうか。
行き先の数を競うような、駆け足のイカレタ旅もどうかと思うが、
目的を失ったように、その場に居座わってしまうと、
それはもう「旅」とは云えない代物になってしまう。
何年か前に、アメリカ映画に、
ジャック・ニコルソンの「アバウト・シュミット」というのがあったが、
あの光景がニッポンにも、すでに着実に押し寄せていたのである。
海外ニュースの片隅で、高い固定資産税を払えない人々の、
トレーラー暮らしの実態が紹介されていたが、
経済の市場原理の洗礼を受けたまま、定年退職後も合理主義に身を委ねれば、
「世間」のしがらみなども、メンドウに思えてくる事は容易に想像がつく。
しかし、その合理主義が「家庭」までも蝕めば、
そう思う束の間、「生活」はいとも簡単に崩壊してゆき、
旅に病んで、行き着く処は、路上生活ということにもなりかねない。
ある時、山奥の温泉宿に泊まっていると、
山峡は集中豪雨に襲われた。
やがて谷間には、打ち上げ花火のような爆音が轟き始めた。
「山が鳴る」という事は、渓谷の巨岩が激流に流され、
巨岩と巨岩が、あちらこちらでクルマの衝突のように激突し、
暗闇の谷底に響き渡っているのであった。
気が付くと、深夜の温泉宿の駐車場には、
同じような軽のワンボックスカーが何台も集まって避難していた。
それは無謀にも、山奥の何処かに何日も居座って、夜明かししていた、
老夫婦たちのクルマなのであった。
2008年07月11日
■北の岬の夏

わー逆光だ・・・。
風もなく、穏やかに晴れた、夏の或る日。
納沙布岬を訪ねました。
北の海は昆布漁の最盛期を迎えています。
岬の双眼鏡を覗くと、漁師の姿がクローズアップされます。
双眼鏡を左へ移動させると、
わー巨大なロシアの警備艇だ・・・。
風景は
にわかにフリーズされて、
ここは北方領土の海なのです。
・・・・・・・・・・。

2008年06月27日
■グランピアン山脈を越えて

スペイサイドの町、ダフタウンで旅の仲間といったん別れて、
Ibarakiさんと共に、グランピアン山脈を越えていった。
山越えの細い国道は地形に沿って造られている。
ニッポンの道路をイメージしていると、
ガツンとカルチャーショックに襲われる。
大地に張り付くような道は、
あくまでも地形のままに上下し、左右にふれるので、
視界は妨げられ、結果、動物も犠牲となる。
道端のあちらこちらに、ウサギがはねられている。
気の毒に思っていると、やがて犠牲者は、
ウサギから羊へと変わってゆくのであった。
スコットランドの支配者は、
幾度かに及ぶ、エンクロージャー(囲い込み)で、
農民を追い遣り、広大な土地は、羊の牧場となった。
そこで、遠隔地で暮らす地主は、ジェントルマンとなり、
土地を追われ難民となり、都市部へ流入した農民は、
やがて新大陸を目指した。
牧畜によるテリトリー争いの宿命と植民地化。
その原点が風景の中に見えてくる。
大地は、徹底的に羊に食い尽くされ、荒涼とした風景となった。
それで、わずかに残された森を、ネイチャートレイルとか言って大切にし、
庭の芝生も、カーペットのように大切に扱う。
スコットランドの風景は環境破壊の姿そのものなのだ。
その結果、「道路」も「ゴルフ場」も、「ありのまま」という考えに至ったのであろう。
食い尽くすだけ、食い尽くす、生活基盤の習い性は、
常に新たなシステムや、場所を編み出さねばならない。
ここに、事物の数値化は浸透し、産業革命は起こり、
そしてこの西欧の「近代化」は、壊滅的な戦争に帰結しつつ、
加速度的に世界を駆け廻っていまに至る。
・・・木々が失われた大地は、一面の「ヒース」に覆われ、
やっと白樺の林が見えて、ほっとすると、
その木々の根元は、既にヒースに覆われているのであった。
そんな光景を眺めるたびに、
「アイアムヒースクリフ」
という「嵐が丘」の一節を思い出していた。

2008年06月09日
■十勝岳温泉にて

皆さんこんにちは。お元気ですか。
きょうの十勝地方は、気温29度。
急に真夏の陽気となりました。
北海道の短い夏をどう楽しもうか。
今年の夏は何処へゆこうか・・・、
あそこにも行きたい、ここも行きたい。
と、あれこれ考えるわけです。
「旅」の大切な要素のひとつは「温泉」。
何処がどうだ。あそこはこうだ。とか言いませんが、
やはり、シングルモルトファンとしては、
ノンチル・ノンフィルのカスクのような「温泉」こそ、
憧れの基準となるのです。
いまでは一様に立派な施設がたくさんありますが、
「おんせんオタク」歴30年の、中高年に言わせれば、
幾つかのチェックポイントをクリア出来る場所は限られます。
シングルモルトに親しむと、知らないうちに、
「水」の鮮度や特性も嗅ぎ分ける様になってしまいます。
・・・いいような、わるいような。
ここは、標高1280m、上富良野の十勝岳温泉。
露天風呂に浸かりながら、目の前の十勝岳連峰を眺めていたら、
峰峰は夕立に煙り、あっという間に、
沢の水が露天風呂へ流れ込んできました。
温泉が水浸しになるなんて、なんだかとても愉快。
とおもっていましたが、やはり山の上ですから、温泉の水割りは寒いのです。

窓の向うは、沢を挟んで、ドーンと上ホロカメットクの山塊が迫ります。
四季折々の十勝岳連峰の風景も、そのときの天候次第の、美しいお楽しみですが、
ここのもうひとつの楽しみは、上富良野町の向うに沈む、夕焼け空の美しさです。

(十勝岳温泉「凌雲閣」さんでもらったテレカ)
2008年05月30日
2008年05月18日
■「イタリアの美しい町=ベスト10」

今回ベルガモへ行きたいという、私のわがままに付き合ってくれた、
ミラノの実業家の青年、エド君に聞いてみました。
――これまで訪ねた北イタリアの街で、どこが一番よかったですか。
いわゆるパックツアーが行かない・・・。
――パドヴァかな・・・。
――そうか、ヴェネツィアのひとつ手前の、運河や植物園が在るとこね。
――行って見ました?
――いや、通り過ぎただけ。でも是非ゆっくり滞在したい街の一つです。
――シエナ、ブレージャもいいですよ。パヴィアならすぐに行けるね・・・。
そうして、あの街はどうか、この街はどうか、と話は弾みました。
エド君も、ひとつひとつの記憶を確かめるように、街を吟味しています。
エド君の推薦する街を、ガイドブックの地図に書き込んで、
「イタリアの青年が推薦する=イタリアの美しい町ベスト10」が出来上がりました。
エド君は、美術・芸術・建築に造詣が深く、演劇集団にも所属しています。
映画はエルンスト・ルビッチが好きで、村上春樹も愛読する文学青年です。
ですから、彼の推薦する「イタリアの美しい町ベスト10」は間違いありません。
機会を創って、是非、訪ねてみたいものです。
①パドヴァ Padova
=ヴェネツィアの隣、大学者の街。
②シエナ Siena
=フィレンツェからバスで1時間。町の中心は世界一美しいといわれるカンポ広場。
③ブレーシャ Brescia
=ミラノから列車で1時間15分。美しい噴水の街。
④フェッラーラ Ferrara
=ボローニャから列車で30分。エステ家の治めた芸術の町。
⑤マントヴァ Mantova
=ミラノからクレモナ経由で約2時間。北イタリアルネッサンスの中心地。
⑥パヴィア Pavia
=ミラノから30kmバスで約1時間。有名な傑作パヴィア修道院がある。
⑦ジェノヴァ Genova
=ミラノから列車で1時間半。地中海の王者として君臨した都市。
⑧ボローニャ Bologna
=ミラノから列車で2時間強。自由都市ボローニャ。歴史がいまに息づく。
⑨レッチェ Lecce (例外として、南イタリアから一つ選ぶとすると・・・)
=バーリから列車で3時間。南イタリアのなかで最も麗しい街。
⑩ベラージオ(コモ) Bellagio
=ミラノからコモは1時間。コモから30kmコモ湖が二股に分れる岬の美しい町。
そんな訳で、ベルガモの丘の頂上、「サン・ヴィジリオの丘」の要塞に立って、
タバコを吸いながら風に吹かれていると、またふらりと、
山の向うの、知らない街を訪ねてみたくなるのです。
2008年05月16日
■日曜の朝の公園にて

あわただしいツアー客やビジネスマンも旅立ったようで、
日曜日の朝は、HOTELも、街の空気も、ゆったりと流れてゆきます。
HOTELの前が、たまたま公園だったので、
朝の散歩に出かけました。
ここはミラノ中心部の、プッブリジ公園Giardini Pubblici。
犬を連れた人々が何処からともなく集まってきて、
犬と一緒に運動しています。
公園の一角が、イヌ君達の運動場(ドッグラン)である事がわかりました。
「AREA RISERVATA AL CANI」
処変わって、何処の街でも見かける、或る国の、或る街の公園。
ひとけの無い公園に、立て看板が一際目立っています。
理由は容易に想像できますが・・・。
どうしてこうなってしまうのでしょうね・・・。
なんて、ふと思う事が多い、今日この頃です。

2008年04月27日
■ムニチパーレと言えば
■ヴェネツィア「フェニーチェ劇場」にて
――ムニチパーレと言えば、パヴァロッティがデヴューしたオペラ座ですね。
そんなところに行けるなんて、本当に素晴らしい。
私も、フェニーチェ座などとともに、一度は行って見たいオペラ座だと思っています・・・。
Takeshi Mogiさま。
コメントありがとうございます。
ブログをごらん頂きまして、恐縮しております。
確かにパヴァロッティは、1961年レッジョ・エミリアのテアトル・ムニチパーレにて、
「ボエーム」のロドルフォ役でオペラデヴューした、とあります。
しかし、今回の「旅の途中」は、レッジョ・エミリアの隣の隣町、
ピアチェンツァの、テアトロ・ムニチパーレの話でした。
同じ「市民劇場」=「Teatro Municipale」なのです。
――ミラノからの列車がポー川を渡ると、
リゾットになる水田地帯が続き、
やがてエミリオ・ロマーナの平原が拡がります。
「PIACENZA」=「PARMA」=「RÉGIO NELL´EMÍLIA」=「MÓDENA」=「BOLOGNA」
とローマ街道に沿って、いにしえからの美しい町が点在します。
それぞれの町は、掛替えのない文化と歴史の奥行きをもって、しかも静かに佇んでおります。
そしてどの町にも自慢の食材と、すばらしいコムナーレやムニチパーレ=市民劇場があるのです。
美味しいものを食べて、飲んで育てば、美しい声にもなるというものでしょうか・・・。
――パヴァロッティも程なく、ピアチェンツァのテアトロ・ムニチパーレでデヴューしました。
なにしろ隣の隣ですから。・・・その時のエピソードについて、
土地の人は、つい先日の事のように、熱く語ります。
しかし、そのエピソードについては、ここではふれません・・・。
ポルポラ(れんが)色の中世の町。
レッジョ・エミリアも、ほんとうに美しい町です。
訪ねたのは初夏の頃で、オペラのシーズンではなかったのです。
しかし、広場の噴水と公園に挟まれた、堂々たるファサードの、
歌劇場の内部の美しさは、
土地柄からも、容易に想像できることです。
また、ついでに言えば、
1996年1月29日放火で焼失した「フェニーチェ劇場」は、
2003年暮れに復元されて、NEWSで話題でした。
幾度も焼失し復活するこの劇場は、その名の通りまさに「フェニーチェ(不死鳥)」です。
フェニーチェ劇場復元のBOOK。
「LA FENICE=THE ARTISTIC RECONSTRUCTION=」を見ると、
「また火事になっても復元できる」・・・なんて思うほど、職人達の技術の詳細が記録されている。
そしてその総工費は9000万ユーロ(当時100億、いま約140億円)と伝えられました。
――日本では、どこの地方都市にもある、「箱物」2つか3つのお値段なのですね。
■紛らわしいので、あえて補足する必要を感じました。
何卒、ご容赦のほど。
2008年04月26日
■イタリアの旅の途中で

ポー川のほとり、人口10万程のピアチェンツァ。
週末の中心街は、羨ましいほど、行き交う人で賑っています。
大型店も車の乗り入れもない街路は、《人》と《建物》がおだやかに調和しています。
こういう人にやさしい地方都市の光景は、日本では消えつつあります。
繁華街をひとつ隔てた一角には、清楚なオペラハウスがあります。
テアトロ・ムニチパーレ(オペラハウス)。
玄関ロビーにはヴェルディの彫像。
――ヴェルディの出身はパルマだと思っていました。
――故郷ブセットはピアチェンツァとパルマのちょうど中間なのです。
この劇場ではヴェルディやトスカニーニが活躍し、
戦後はイタリアオペラを担った、
フラヴィアーノ・ラボーやジャンニ・ポッジという
偉大なテノールも生みました。
舞台では地元の人たちが、バレー公演のリハーサル中でした。
振り向くと絢爛たる客席。
「ファンタースティック!」と感激すると、
劇場のバルコニー席の照明を点燈してくれたのです。
200年前に市民が資金を持ち寄って築いた劇場には、
ピアチェンツァの人々の「夢」と「思い」、
そして地域の「誇り」がこめられていました。
――「200年前は、こんな感じ」と照明を絞ると・・・、
――そうだよね。劇場もまだランプの灯りの中だよね・・・。

■ところで、ピアチェンツアでも、
バールやリストランテの彷徨は、うれしいひと時でした。
なにしろ、エミリオロマーナ州は、
美食の迷宮なのです。
そんな街のBAR(バール)やリストランテの店先では、
自慢のワインボトルの一方で、
あちらの店でも、こちらの店でも、
かならず目立つボトルがありました。
それが「ABERLOUR」でした。
イタリアで人気のモルトは「グレングラント」とか、
以前読んだ記憶がそのまま残っていたので、
人気の「ABERLOUR」との巡り会わせは新鮮でした。
そこで帰って、さっそく「ABERLOUR」をCLUBの定番としたのです。
軽くて誰でも飲み易い「アベラワー」は、「グレンモーレンジ」とならんで、
以来人気のボトルとして定着しました。

2008年04月09日
■SCAPAの男たち

1998年9月10日。
――幾度か電話をしたけれど、連絡が取れない。
――それでは、行くだけ、いってみようか。
そんな感じで「SCAPA」蒸溜所を訪ねた。
町を離れると、すぐに入江が拡がり、蒸溜所が見える。
そこはスキャパフロウ。「SCAPA」というのは、この入江の名称だ。
穏やかな入江は、古代から、恰好の舟溜りなのだろう。


「SCAPA DISTILLERY」1885年創業。
テイラー&ファーガソン社。
静まり返って、人影も無い。
看板もなんだか錆付いている。
――様子が何かおかしいぜ・・・。
――おーい。誰かいますか~。
「おー、待っていたぜ」と何処からか、
三人の男たちが現れて迎えてくれた。
――やけにひっそりとしていますね。
――うん。いま「SCAPA」は生産を休止しているのだよ。
――そうですか・・・休止中とは、知りませんでした。
そうか、我々を案内するためにわざわざ来てくれたのだね。
案内された小さな事務所には、
「1996年金賞」の賞状が壁に懸かっている。


――それじゃあ、ぼちぼちゆきますか。
ローモンド型の特徴あるウオッシュ・スチルは、
倉庫のような建物の二階にあった。
窓の向うにはスキャパ湾が拡がる。
――この特殊なスチルが「SCAPA」の個性の源なのだね。
案内してくれる男の話には、熱い思いが込められている。
それはけっして、方言のせいばかりではない。


――それじゃあ、ウエアハウスへ案内しましょう。
「樽」から汲み出してくれたモルトは、
1973・1988・1990のバーボンカスク。
熟成されたモルトは、「オイリー」で、「スパイシー」で、
なんてその時思わなかったが、とにかく「旨い」と興奮した。
普段飲んでいる「ボトル」と別物のインパクトであった。
――ご親切ほんとうにありがとうございます。昼間から酔ってしまいそうです。


――わー、製造は休止しているけれど、等分の間、飲めるだけの「樽」はありますね。
――いや、この個性的なモルトが、このまま消えてしまうのは惜しいですね。
などと言いながら、「SCAPA」は、「バランタイン」の主要モルト。
という本の解説を思い出した。


「SCAPA」のもうひとつの特徴。ピートを焚かない。
と解説本に書いてある、その仕込み水を案内してくれた。
工場の脇には、その先ですぐに海へ流れ込む小川があった。
――リングロ・バーン。ウイスキーが無ければ、
名前さえ付かない、何処にでもある小さな湧き水だ。


曇り空の下で、眠るような静けさのスキャパフロウは、
20世紀の二度の大戦で、ドイツと英国の重要な戦略拠点となった場所でもある。
――第一次世界大戦末期。
降伏したドイツ軍は、Uボートの連合国側への流失を恐れ、
スキャパ湾で自ら41隻を自沈させた。
そして、スキャパ湾はUボートの墓場と化した。
――第二次世界大戦の1939年10月。
ドイツ軍のUボートU-47の攻撃を受けた戦艦「ロイヤル・オーク」は、
15分で沈んでしまった。
乗員1200人のうち、833人の命が奪われた。
いまでもスキャパ湾の水深27mの海底に、
戦艦「ロイヤル・オーク」は眠っている・・・。


目前のスキャパフロウは、この小さな島の、
歴史を象徴する「場所」なのだろう。
侵略者たちはいつも、この入江から遣ってきたのであろう。
それはバイキングであり、スコットランド王であり、
イングランドであり、フランスであり、ナチスドイツであった。
そして侵略者たちは、外的要因よりも、
むしろ内包する「自己矛盾」で、常に自壊して、島を去っていった。
5000年の長きにわたり、支配者が幾度変わっても、
オークニー島はいつも、オークニー島であった。
そういうオークニー島の人々は、自らを「オーケィディアン」と呼ぶ。


ながい時間の荒波を潜り抜けるように、オークニー島には多くの伝説が生きている。
出来事を忘れ去らずに残してゆく、「文化」の蓄積がある。
それは、語るべき「場所」と、語るべき「人」と、
そして潤滑油のような、旨い「酒」があるからなのであろうか。
こんなに小さな島なのに、
「ハイランドパーク」「スキャパ」という、
個性豊かな、二つのウイスキーが存在する。
――美味しい「酒」の出来る場所。
それは信頼すべき人々の暮す「場所」でもあるのだろう。
(つづく)
■その後しばらくして、2004年「SCAPA」蒸溜所は、生産を再開した。
2008年04月08日
■DVD「モルトウイスキーの故郷」

CLUBの仲間と訪ねた、秋のスコットランド。
1998年の9月の事だから、あれからもう10年の月日が流れた。
それはKAWATA理事長のアイデアで、
「モルトクラブ」が結成されて何年か経っていた頃だ。
「プラザ合意」で、ニッポンのウイスキー事情にも、
おおきな変化が押し寄せていたが、
まだ、シングルモルトファンは少数派であった。
帯広=羽田=横浜中華街で食事の後、
HOTELのバーで「ラフロイグ」を飲みながら合流。
成田=ロンドン=グラスゴー。
グラスゴーからインヴァネス経由でオークニー島へ。
そしてインヴァネスからスペイサイドの町へ。
途中二手に分かれて、グランピアン山脈を越え、
ダンティからクーパー近郊のマナーハウスでまた合流。
日曜(安息日)の朝の、
セントアンドリュース・オールドコースを散策して・・・
旅の終点は、エディンバラだった。
・・・旅馴れた、KAWATA理事長の完璧なコーディネートとアイデア。
いま、思い返してみると、ずいぶん中身の濃い「旅」であった。
ちょうど、デジタルビデオが発売された頃で、
馴れない「パスポートサイズ」を、たまたま持参していた。
使い勝手も解らぬままに撮って、帰ってきて、
寝転びながら、3晩かけてつなぎ合わせたのが、
「モルトウイスキーの故郷」(50分)だ。
シロウト映像はともかく、自慢できることは、旅の途中で買い集めた、
ハイランドカテドラル・アメイジンググレイスをはじめ、
スコットランドの名曲の数々を、画像にかぶせた事だ。
幸いけっこう好評だったので、やがてDVD化して限定5部作成した。
10年はあっという間に過ぎてゆき、
モルトウイスキーもすっかり身近になり、人気が定着した。
CLUBには、若い仲間もふえ、気が付くと、世代交代の年齢となった。
きょうも、おおくの旅人たちが、
われわれとおなじように、スコットランドを旅していることだろう。
そこで、10年前の記憶をもとに、忘れないうちに、
「オークニー島」を、気ままに語ろうと思う気持ちになっている・・・。
ビデオ画像を思い起こしながら、
まず語ることは、
「スキャパ蒸溜所の男たち」。
「ハイランドパークにて」。
そしてオークニーの詩人
「ジョージ・マッカイ・ブラウン」。
そんなところだろうか・・・。(つづく)

2008年04月06日
■襟裳岬にて

海と山に囲まれて、遥かに続く道がある。
あの山の向うには、なにがあるのだろう。
岬へと続く道の、幾つものトンネルを過ぎて、
やっと辿り着いたと思うと、道はさらにその先へ、続いているのだった。
このように、ニッポン列島のあちらこちらに、海へ突き出した「岬」がある。
「岬」は、行き止まりの場所。辿り着いた道を、引き返す場所でもある。
ここは、北海道の南端、「襟裳岬」。
本州の都会では、桜の季節のニュースで賑わう頃。
辿り着いた岬は、訪れる旅人もまばらで、誰も居ない。
海からの風だけが吹き抜けている。
この風は、何処から吹いて来て、何処まで吹いてゆくのだろうか。
遠く海の彼方を眺めると、水平線は確かに丸みをおびて見える。
太平洋に沈んでゆく岬の先端の岩礁。
その断崖の足元で、波間にゴマ粒よりも小さいものが浮き沈みしている。
よく見ると、それは「ゼニガタアザラシ」なのだ。
あちらでも、こちらでも、顔を出しては、また沈む。
その様子は、波間に変化する波紋を追いかけると、容易に見えてくる。
わー、その数はすぐに50を越える。
誰も居ないと思った岬が、なんと賑やかな事か。
♪~風は ひゅる ひゅる 波は ざんぶりこ
誰か わたしを 呼んでいるような
襟裳岬の~
■襟裳岬 島倉千代子 歌 1961年
(丘 灯至夫作詞 遠藤実作曲)
♪~北の街ではもう 悲しみを暖炉で
燃やし はじめているらしい
理由のわからないことで 悩んでいるうちに
老いぼれてしまうから
黙りとおした歳月を 拾い集めて 暖めあおう
襟裳の春は 何もない春です
■襟裳岬 森 進一 歌 1974年
(岡本おさみ作詞 吉田拓郎作曲)
・・・そうか、島倉千代子は半世紀も「歌手」であるのか。
それはじつにすごい事だ。大変な事だ。
しかしその偉業も、忘れ去られてゆくのだろうか。
・・・もうひとつの「襟裳岬」。
改めて、なんとすばらしい歌なのだろう。
「襟裳の春は 何もない春です」
そのとおりだね。
でも何もないのは、自分のアタマの中なのかもしれないね・・・。
健忘症のわたしに、岬の「歌碑」は、
過ぎて来た時を、思い起こさせてくれる。
そしてどういう訳か、幼い頃の「童謡」を口ずさんでいた。
♪~歌を忘れたカナリヤは後ろの山に棄てましょか
いえいえ それはなりませぬ
~~~
♪~歌を忘れたカナリヤは象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す
童謡「カナリヤ」(詩・西条八十)

2008年03月12日
■スペイサイドの田舎町のパブで

スペイサイドの田舎町のパブで、男達が自慢した「ブラバー」の正体。
■美しいパゴダのある風景でおなじみのストラスアイラ蒸溜所。
「ストラスアイラ」は、シーグラム社シーバスリーガルの原酒としても名高い。
ここはキース(Keith)の町。
街道沿いのB&Bに宿泊を決めたのだが、食事をする店が見当たらない。
仕方なく近くの宿屋の食堂で、「フィシュ・アンド・チップス」の夕食を取った。
レストランは無くても、パブはちゃんとあるのがスコットランド。
日が暮れると、何処からともなく男達がやってきて、盛り上がっている。
突然の闖入者に、男たちが話しかけてきた。
「日本人よブラバーを知っているだろ」
はじめは、なにをブラボー・ブラボーと叫んでいるのか、チンプンカンプンだった。
「ブラバー」が、あの長崎の、グラバー邸の「グラバー」と判るまでには、
10分以上かかったのだ。
男達は150年も前に日本へ渡った、地元アバディーン出身の「グラバー」のことを、
誇りをもってわたし達に伝えたかったのだ。
その「グラバー」こそ、日本の近代化にさまざまな「西欧」を伝えたスコットランド人なのです。
■トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover, 1838 - 1911)
アバディーン出身の商人。スコットランド系フリーメイソン。
1859年開港まもない長崎へ来る。
やがてグラバー商会を設立。お茶・生糸などの貿易業を営む。
幕末の混乱期には長州・薩摩の討幕派を支援し、武器・弾薬を調達し巨額の富を得る。
1863年伊藤博文・井上馨らの長州藩士5名(Chosyu Five)のロンドン密航。
翌1864年薩摩藩英国留学生の密航のお膳立てをした。
そして、これらの密航者が柱となって「明治」の近代化は推進される。
しかし世が「明治」となると、武器は売れなくなり、
債権の回収もできなくなったグラバー商会は、明治3年破産する。
それでも、以降は蒸気機関車の試走、ドック建設、高島炭鉱開発などで、
日本の近代化にめざましい貢献をする。
その縁で、三菱財閥の相談役として、麒麟麦酒の基礎も築いた。
文明開化の日本の神戸で、
わが国初めてのビール工場を造り、最初のゴルフ倶楽部を創った人。
それもグラバーなのだ。
・・・それにしても、グラバーを廻って、
「人」と「カネ」が激しく行き交ったのも明治維新であった。
グラバー商会の10年。
あっという間に、巨額の富を手にしたグラバーは、あっという間に巨額の負債を抱えた。
その「カネ」は、いったい何処から湧き出て、何処に消えていったのだろうか。
歴史の背景で、話の興味は尽きない・・・。
■これらの事を知るきっかけとなった本は、
犬塚孝明著「薩摩藩英国留学生」(中公新書1974刊)だ。
ついでに言えば、この本のなかで、もっとも印象深いのは、
留学生中最年少の「長沢鼎」こと磯永彦輔だ。
当時密航は「死罪」であったので、皆変名を使った。
13歳の長沢少年は、アバディーンのグラバー家に留まる。
そして後に、トーマス・レイク・ハリスの共同体に参加し渡米する。
1875年共同体はカリフォルニアに移り、長沢はワイナリー開拓に着手する。
やがてハリスの後を継いだ彼は、「グレープ・キング」として成功するのだ。
そしてカリフォルニアワイン・ソノマバレー開拓のパイオニアとなるのだった。
2008年03月08日
■愛のディステラリー

「ポットスチルに燃やし続けた炎 それは政孝とリタのふたりの情熱です」
大量生産・大量消費の、効率を追及する世の中にあって、
損だ得だ、高い安いだの、
コマーシャリズムの情報洪水の中で、
モノの出自がすっかり見え難くなっています。
そんな中で、「シングルモルト」への憧憬は、
人と自然を廻る、モノの出自への「旅」でもあります。
「樽」で熟成を待つウイスキーは、
偶然に出来てしまったという、ミステリアスな魅力を秘めています。
人が造ろうとして造ったものには、どうしても「作為」が見え隠れします。
いろいろ「創意工夫」という「味付け」の努力にも限界があります。
そこが、モルトがスナック菓子と違うところです。
・・・スペイサイドの蒸留所を訪ねたときに、そんな事を実感して、
ますますモルトウイスキーの魅力に引き込まれました。

ここはNIKKAウイスキー余市蒸溜所。
蒸留所の一角にある「原酒」販売コーナーには、
「ポットスチルに燃やし続けた炎 それは政孝とリタのふたりの情熱です」
というメッセージが、大きく記されています。
「偶然」に出来てしまった・・・。と記しましたが、
それを導き出すのは、あくまでも「人」の「情熱」あっての事。
良い物にはこのように、かならず「人」と「人」との物語があります。
北海道のモルト愛好会ですから、
「余市」の「ホッグスヘッド」で熟成された、
「Softy & Dry」「Fruity & Rich」など5種の「樽出し原酒」は基本アイテムです。
2008年03月05日
■言葉がうまくしゃべれなくても・・・

言葉がうまくしゃべれなくても、
「シングルモルト」を知っていれば、「旅」の退屈もだいぶ紛れる。
そんな事を実感したのは、マンハッタンのホテルのBARだ。
遠慮がちにカウンターの隅で、一人モルトウイスキーを飲んでいると、
「うまいのがある、一杯おごるぜ」とバーテン氏が話しかけてきた。
「ラフロイグのカスクじゃないか。これはイケルゼ」というと、
「おまえはナイスだ」といって、スペイン出身のバーテン氏と、片言のハナシは、はずんだ。
カウンターの周りを見廻すと、なんだ皆「バドワイザー」じゃないか・・・。
――以来、外国で、国内で、知らない街で、「BAR」の灯かりは有難い。
一人ひょっこり、お邪魔をすることが楽しくなった。
「BAR」も「シングルモルト」も世界中にある。
・・・近年では、映画「ホテル・ルワンダ」の、あの悲劇のストーリーの中でも、
「モルトウイスキー」が《機能》していたのが印象的だ。

――そんな訳で、一人上海外灘のHOTELのBARへ。
世界の中心=中国で、辺境の酒、「スコッチ」を飲もうとメニューを見廻すと、
「威士忌」「威士忌」とあるのがウイスキーなのだ。
その、当て字?を見て、
「ああ、ここは中国だったのだなあ」
と、アヘン戦争以来の近代の歴史がアタマを掠めた。
えらく量の少ない、グラスの「威士忌」の追加をオーダーする度に、
「威士忌」「威士忌」とメニューの当て字を見る度に、
酔いは妙に覚めて、しらじらとして来る。
隣の国なのに、ずいぶん遠くへ来たような気がしたものだ。
―――あれから、もう10年近く経つ。
急速な経済発展が続く中国では、「威士忌」の人気が年々高まってゆくことは、
容易に想像出来ることだ。
人気のシーバスリーガルは「芝華士」。マッカランは「馬加蘭」。
黒ラベルは「黒方威」。 赤ラベルは「赤方威」。
バーボンは「波本」。そして、シングルモルトは「単一麦芽」。
・・・これはじつにわかりやすい。スコッチは「蘇格士威士忌」という事になる。
きょうは、このくらいにしておこう。
謝謝。














