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2008年09月02日

■美の歴史とシングルモルト 




モルトウイスキー蒸留所揺籃の頃の18世紀。
スコットランドでは、「スコットランド啓蒙」と呼ばれる時代であった。

その頃から今日まで、
おおくのウイスキー蒸留所は、
消長を繰り返し、現在に至るのだが、
いまに伝わる100余りのモルトの、その個性との出会いが、
モルトウイスキーいちばんの愉しみであろう。

風土に根ざす、個性的で多様なものの背景には、
個性を育む、ものの見方や、考え方が無くては、生まれないとも言える。

・・・食後の読書にぴったりの、わかりやすい読み物。
ウンベルト・エーコの「美の歴史=STORIA DELLA BELLEZZA」を、
ぱらぱらと、時代ごとに拾い読みしたり、眺めながら、
モルトウイスキー揺籃の頃の、ヨーロッパの「美の歴史」を振り返るのも興味深い。

・・・それにしても、ウイスキーは旨いのに、
スコットランドでも、どうして料理はこういう味に、なってしまうのであろうか・・・。
・・・・それはさておき、

スコットランド啓蒙の中心的な存在のひとり、
ディビッド・ヒュームの「主観主義」の思想は、
当時のヨーロッパの「美」の観照にも、おおきな影響を与えている事を知った。
以下「美の歴史」から引用する。


  古典主義と新古典主義
  
   ・・・・・・・・・・・・・・
  考古学研究は18世紀後半、確かに流行りであった。
 これは、ヨーロッパの規範の外にある異国的な美を求めて
 遠方の土地へ出かけて行く旅行熱をよく示している。
 
 しかし、研究、発掘、遺跡の発見だけでは、この現象を説明するのに充分ではない。
 なにしろ、ポンペイの発掘(1748年)にたった十年先んじただけのエルコラーノの発掘(1738年)
 に対して世間はまったく関心を示さなかったのである。
 
 ポンペイの発掘が、古代と起源への真の熱狂に火をつけるきっかけとなった。
 この二つの発掘の問に、ヨーロッパの趣味に深遠な変化が生じたのだった。
 
 決定的であったのは、ルネサンス時代の古代世界のイメージは
 じつは古代末期の退廃の時代のものであることが発見されたことだった。
 古典的美とは、じつは人文主義者たちによって歪められたものであったことが明らかになった。
 そしてこれを拒絶して、「真の」古代の探究が始まった。
 
  18世紀の美に関する諸理論を特徴づける革新的な性格はここに起源をもつ。
 原初の様式の探究は、伝統的な様式との断絶や因襲的な主題やポーズの拒絶をもたらし、
 表現上のより大きな自由に役立った。
  
  しかし、規範からの自由解放を声高に訴えたのは芸術家たちだけではなかった。
 ヒュームによれば、批評家は、
 自分の判断を外部からの偏見や慣習から解放される力さえあれば、趣味の規準を決定できる。
 批評家の判断というものは、方法・洗練・経験はもとより偏見からも離れて、
 良識のような内的特性にもとづいていなければならないのだ。
 
   このような批評は、のちに分かるように流布しているさまざまな思想が、
 議論と――もちろん――取り引きの対象とされることが前提になっている。
 同時に、批評家の活動は、古典的規則からの趣味の決定的解放を前提とする。
 これは少なくともマニエリスムから始まった運動であった。
 
 そしてこれはヒュームにおいて、懐疑論に近い美学の「主観論」に達した。
   (この懐疑論という言葉は、ヒューム自身が肯定的意味で、
            自らの哲学にあえて与えた呼び名である)。
 
 このような状況の中で、基本的なテーゼは、美とは事物に属するものではなく、
 批評家、すなわち外的影響から自由な観者の頭の中で形成されるものだということになる。
 
 この発見の重要性は、
 17世紀にガリレイによって物理学の分野でなされた人体の諸性質
 (暖かい、冷たい、など)の主観性の発見に匹敵するものであった。
 「人体の味覚」の主観性――ある食べ物を甘く感じるか苦く感じるかは、
 その食べ物の性質によるのではなく、それを味わう者の味覚器官しだいであること――
 は「精神的味覚」の主観性に相応する。
 
 事物に本来そなわっている客観的な価値という基準が存在しないのだから、
 ひとつの物が自分の目には美しく見えても、隣人には醜く見えることもあるわけだ。
             (東洋書院刊 ウンベルト・エーコ「美の歴史」植松靖夫監訳P244-246)

  
  デイヴイド・ヒューム
  『道徳、政治、文学に関するエッセイ』ⅩⅩⅢ,1745年頃
  
 美は事物そのもののうちにある性質では全くない。
 それは、事物を観照する心の内にしか実在しない。
 だから、各々の心はそれぞれ相異なる美を知覚するのである。
 ある人は、別の者が美を感じとるところで醜を知覚しさえするかもしれない。
 そして、あらゆる個々人は、他人の感情を規制することなど主張せずに、
 自分自身の感情に同意すべきである。
 真の美ないしは真の醜を追求することは、
 真の甘さや真の苦さを確かめられると主張するのと同じ程に無益な試みである。
 身体器官の性向に従えば、同一の対象は甘くも苦くもある。
 そして、ことわざが正しくも明快に言っているように、
 味覚についての議論は無益なのである。
 この格率を、身体の味覚と同様、
 趣味ついても拡大して適用することがきわめて重要である。
 こうして、哲学、とりわけ懐疑的哲学とはしばしば対立する常識的立場は、
 少なくともこの場合は、
 趣味については争えないという判断を下す点で互いに一致するのである。
              (東洋書院刊 ウンベルト・エーコ「美の歴史」植松靖夫監訳P247)